蛙の二人組の夢

住んだことのない部屋だが、実家らしい。母が出掛け、家に一人である。そこに、この世にいないはずの二人組が訪れる。彼らは陽気な鬼か、あるいは私が映画を観て作ったイマジナリーフレンドの類であり、私は好意を抱いている。私は子供のようになっていて、彼らを一生懸命もてなす。コーヒーを入れたり食べ物を出したりする。

二人のうち一人は私と会話できるが、もう一人は私の声が聞こえないらしい。聞こえる方の一人が間に立ってくれたらいいのに、と思う。私は存在しないものと話していることを理解していて、この機会を貴重に思う。彼らは話を分かってくれる。

やがて二人は帰っていく。もうすぐ弟が来るから、彼に見つからないように帰った方がいい、と私は勧める。なぜなら二人は蛙の化身であるから。とはいえ、弟が蛙をいじめるところは特に見たことがないが。(これは異界の友達と別れるシーンのお約束である)

二人が帰ったあとも、通常と違う意識状態は続いている。彼らのために片付けた布団や、用意したコーヒーは実際物理的にそうなっていて、この出来事は夢ではない、と思う。私は私の目線が低く、小さくなっていることに気付く。これも何かの錯覚に思われ、いずれは元に戻ってしまうと理解している。棚の上のテレビに下から手を伸ばすが、届かない。普段ならテレビは自分の背丈より下にあるはずである。実際届かないのは、単なる錯覚では説明がつかないぞと思う。膝立ちになっているのかもしれない、と思うが足の裏で確かに床を感じている。弟が似た体験を報告していた気がする。背丈は気を抜くと戻ってしまいそうではあるが、意識すれば低いまま保てる。

私はベランダに出るが、錯覚によって下に落ちてしまうかもしれないと思い恐怖する。あるいはそれが弟の死因かも。気を引き締めて、出たのとは違う窓までたどり着く。二人はベランダのベンチに座っていたかもしれない。回想かもしれない。

二人のうち一人は、少年の頃に身を売っていたが、自分は沢山の女の子と付き合っているのだ、という妄想によって自己を守っていた人物である。与えられる女装用のプレゼントは、自分が女の子のために用意したものだと考えるわけである。この妄想は、彼の現在の過ごし方に影響を与えている。そういう妄想的な人物たちがひとつの家に寄り合って住む、というストーリー。手塚治虫の「すべていつわりの家」はこの映画が元ネタかもしれない。

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