創作談義の夢

映画を見ている。タイトルは「千と千尋の神隠し」のようだが、内容はクレヨンしんちゃんの劇場版のようだ。しかしクレヨンしんちゃんではない。主人公は子供である。

子供だけが家にいるときに火事が起こる。両親はそれを知らない。子供はどうするのか、どうなったのか?(映画のクライマックス)

映画について弟と語り合う。食事の席のようであり、車の中のようでもある。母と父もそばにいる。

僕はこの映画を観るのが4回目であり、地元の友人たちと観たりしていることを説明する。そんなに何度も観ているのに、今度も「火事の場面がどこで来るか」を忘れてしまっていて、そのためクライマックスに引き込まれた。僕はこれが構成の力によるものであると語る。

弟はいつになく熱心に語り、「ダイナミズム」という言葉を何度も繰り返す。例えば「ダンジョンめし」において、センシが軽視していた異国のビールをライアンの勧めによって飲むに至り、感動する場面のような(現実にはない場面)、そうしたダイナミズムが火事の場面にはあるのだと。

僕は弟の言わんとすることがいまいち分からず、さらに掘り下げつつ自分の説に合流させようと口を開く。目が覚める。自分の続く台詞は「君の言いたいことは、センシとライアンのそうした関係性が柔軟な展開をもたらし得るようなものである、つまり二人の作中での関係がダイナミックだということであり、話そのものがダイナミックということではないのではないか?」だったと考える。

コメント

  1. totsukakodama

    弟と最後に会った時の会話の焼き直し。その時は弟が「構造」と呼ぶものと自分がそう呼ぶものとのズレが話題になった。
    弟が「構造」と呼ぶものは僕からすると「人物相関図」のように思われた。僕はストーリー展開を問題にし、弟は構想上における諸設定を問題にしているように思われる。
    この夢で弟が問題にしているのも、作中人物の関係性であってストーリー展開ではないのではないかと思われる。しかし、だからといってそれが受容体験的でないかどうかは、起きてみると言い切れないように思われる。確かにキャラクターの関係性も読者が受容して体験するところのものである。

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